受験勉強の夜、深夜ラジオは不可欠なアイテムだった。
ノイズの波をかきわけゆっくりとダイヤルをまわす。一瞬の沈黙に続いておなじみのジングルが聞こえてくれば、瞬時に頭が切り替わる。息抜きが必要になれば
再びダイヤルに手を伸ばせばいい。思いもよらない異国の言葉やリズムが飛び込んでくる。ラジオとともにあったあの夜は、今よりずっと濃くて深くて輝いていた。
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高橋千尋の作品は、目には見えない電波をとらえるアナログ・ラジオのようだ。ほんの少しダイヤルがずれれば見えるはず…なのに、どうしても触れることができ
ない日常と重ね合わせに存在する世界を丁寧に写しとる。その上、どこか懐かしさを感じさせるのだ。
私たちはノイズの中に高橋の開けた小さな扉を見つけ、そおっと身を乗り出すようにのぞき込む。決して扉のむこうの住人達に悟られてはいけない。ニワトリの一
声で雲散霧消してしまう百鬼夜行のように、すべては散り散りに消え去ってしまうだろう。
扉の向こうにいるのはこんな生き物たち--鞘から飛び出したグリンピースの子どもたちは自由闊達に転げまわり、ご飯の入ったおひつの周りでは茶碗小僧が
輪になって踊る。とぼけた顔で夜道を闊歩するのは名もなき「いつものあなたたち」。
すこし不気味だけれども、おどけた姿はとても楽しげで、いつまでも愛でていたくなってくる。
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彼らは、おもに人々の寝静まった夜の世界に属していると思われる。けれども、私たちが活動する生活の中にも存在していて、時に気配として感じられる「なにも
のか」と共鳴するものなのかもしれない。たとえば、めぐりくる季節を肌で感じるとき、名状しがたい感覚に襲われることがある。時にそれは冬山から降りてくる湿
気を含んだ重たく質量のある空気であったり、ある時には春のゆるんできた日差しや陽気、または目の前に広がる大きな大きな空…。人を包み込むほど大きす
ぎて、人間の視界には収まり切れないもの、触覚や気配としてしかとらえられないものまで、高橋は絵画に変換して描き出す。
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今日、都市で生きる私たちの日常は、パソコンの前で過ごすオフィスや、駅の雑踏でできている。プリミティブでささやかな気配に意識を向けるにも困難がともな
う。ならば、いっそのこと、携帯ラジオのように高橋千尋の作品を持ち歩ければ、と願う。オーディオルームのような額ぶちに収まった絵画作品もいいが、手のひら
に収まるサイズの豆本になっても高橋千尋の作品は十分魅力的だろう。さらに贅沢が許されるならば、高橋の世界を「パラパラ漫画」にして手に入れたいと願う。
うつ虫を掘り返すトリ人間の妙技や、暗い迷宮から植物のような耳飾りが生まれ出る神秘的な瞬間…。指で紙をはじくたびに、異界の生き物たちが活き活きと動
きだす。
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2020年、令和初の正月がまもなくやってくる。オリンピックを控えた東京の街は、いつも以上に輝かしく晴れやかに新春を迎えるだろう。浮足立った人々の姿を、
傍らでくすくす笑っている正体不明の生き物たち。ひょっとすると、画廊の片隅に隠れていて「あけましておめでとう」とであいさつを交わす人々を待ち受けていな
いだろうか。人間を真似てペコリとお辞儀しあう彼らの姿を想像してみる。嗚呼、今から高橋千尋展のオープンが待ち遠しい。
(上山 陽子/美術評論)