展覧会によせて
想像する。
一枚の絵を見て、題名も参考にして、そこから物語がわいてくる。描かれているものごとの組み合わせが意外なこともあり、荒唐無稽な物語になりそうだ。見た夢を説明するときのように、ありえない出来事が浮かんできて、それを人に聞かせたら思わず笑われてしまうかもしれない。多分その物語は、絵の中だけにとどまらず、描かれていないことまでも含み、飛躍していくだろう。
あるいは、この絵は、どのようにして描かれたのか思いめぐらせてみる。過去見た光景のストックの中から選んで、それをあるものは手でちぎり、あるものはていねいに切り取ってできた断片を、貼り付けるように、組み合わせて描いたらこんなふうになるのではないか。そんな単純なことではないだろうが、時空や状況を越えた異質なものの集合という感じはする。また、陰や暗闇の存在は濃厚なのに、影があまりないのはなぜか。
生気のある木目をあらわにした板壁や、黒い毛のようなふさふさしたもの、手や足などの切り離された体の一部分、器から逃れて移動する意志を持つかのようにくねくねとうねる水。描かれているものはどれも不気味さを帯びているとともに、ユーモラスな一面も兼ね備えていて、絵の世界に親しみさえ与えている。絵本や紙芝居にしたら喜ばれるのでは、と考えてしまう。
巨大な赤いリボンの絵がある。ヒョウ柄や水玉に侵蝕されたり、下部から溶け始めたりしているのだが、リボンにはそのようなことは起こらないので、これは、絵に描いたリボンだからこそそうなっているし、巨大にもなりうる。
どの絵にも言えることではないのかもしれないが、解釈しようとするのではなく、想像力を働かせて絵の世界を生きてみるのもいいのではないかと思う。自由になれるし、楽しめる。そう思わせられるのは、一目見て、何の絵だろうと並々ならぬ関心を抱かせる絵の力によるものであり、自分の奥底にまだ眠っていた記憶の方向へグイと気持ちを向けさせられたからかもしれない。
この展覧会を見て、想像する。どうだろう。絵と、そこから生じる自分の中の物語。いくつかの小さな舞台を見たような、心地よい気持ちになるのだろうか。見た絵が、もしかしたら夢の中に場所を見つけて、幾晩か現れるかもしれない。あるいは、見た絵のかわりに、自分自身の記憶が、自分の描いた絵として、目を閉じた暗闇の世界に現れるとしたら。
言水ヘリオ