あらたな箱の中から見つめる風景
個展のための小品を描き上げた野津とポートフォリオを眺めていて、ふと2001年の初個展にも通じるなにかを感じて問いかけてみた。昨年6月に引っ越しをしたのが影響しているかもしれない……引っ越しといっても、雨漏りのする風呂なしアパートを出て、一軒隣に移ったのだという。今展は、新居で描かれた作品群の初お披露目の機会というわけだ。
野津は、自室の床の上に紙を敷いてあぐら座の姿勢で作品を描く。画家として活動を始めてから16年間、ほぼすべての作品が同じ床の上で生み出された。野津にとって、部屋は、描くためのスイッチが入る特別な装置であったから、そこを出るというのは負担になったに違いないし、新居でもこれまでどおりに描けるかどうか心配があったようだ。
かつて、風景を写生する装置としてカメラ・オブスキュラという発明があった。その原初的な仕組みにおいて、画家は暗い部屋(箱)のなかで、壁に開けた穴から入ってくる屋外の光景を紙の上に映し出し、その輪郭を手でなぞって正確に描写した。野津が床の上で描き出す風景は、光として目に写る風景とはだいぶ様相が異なり、野津という特殊なレンズを通過し咀嚼され実感が滲む絵画としてあらわれてくる。
部屋を移ったあとも、大きな障害なくペンをすすめることができたことは、野津にとって幸いだった。しかし長年見つめていたその場所からすこしだけズレた場所に位置することが、奇妙な違和感となって作品に影を落としているように見える。作品《求める手》や《内部の地図》に描かれた窓枠の外には、人けのない黒い窓がちらりと覗く。いま佇む此処とかつての場、二つの足場を意識しながら揺らぐ不安定な心持ちがにじんでいるようだ。
今展の出品作は、顔や眼などのパーツがコラージュとして使用されたり、断片的でばらばらな筆触の混在、強いパースとフラットなパターンの併置など、意図的に画面が攪乱・接合されている。コラージュの素材として使用されている世界地図は、多言語で地名が表記されたもの。これも二重の世界感を象徴するものといえるだろう。一方で、地図とは図と文字(あるいは記号)によって風景を整然と平面上に表す存在だから、野津のなかには、あらたな絵画的秩序を求める思考が働いているといえるだろうか。
この小文を執筆している2017年8月現在、野津は4枚組で一つの画面となる幅2メートルを超える大作に取り組んでいる。そのうち上半分にあたる2枚の紙の上に街並みを暗示する線描が姿を見せ始めたところだ。毎年、個展の度にギャラリーの壁一面を占める大作が発表されてきたが、その多くは明確なエスキースを用意せずに手の向くまま、モティーフが次のモティーフを呼び寄せるかのように描かれてきた。流転するイメージの連鎖が、最終的に全体となって表われてくるのが特徴であり、大画面の中を焦点が泳ぐ絵巻物を開いていくような流動的な絵作りである。
ところが、送られてきた制作過程の写真には、2枚のほぼ中心あたりに焦点を定めた一点透視図法によるダイナミックな街並みが浮かび上がっていた。多視点の構図から一転し、強烈なパースペクティブによって奥行きの感覚が強調された景色がそこにあった。深い穴の底を探り覗き込むような―。
新居の、いままでと異なる視座から見つめられる景色は、見慣れたものであるのに乱視のようなズレを含み、より意識的に見つめることを野津に要求したのかもしれない。白描画のような無人の風景をみながらそう考えてみる。しかしこのあとペンが進むうちに、整然とした街並みの中を、野津の分身ともいえるモティーフ・水をたたえたうつわたちや毛虫のようにうねる手足が這い回り、おそらく個展の会場で出会う時には大いに印象を変えているに違いない。
新たな箱の内部でペンを握る野津は、16年間描き続けた箱の外側にいる。この場所から世界を測量・観測しつづけたなら、画家はどんな地図を見出すことだろう。
上山 陽子(美術評論家)