ピノキオと、黒い島々
ひょろりと伸びた小枝のような鼻。あやつり人形・ピノキオのような姿だ。
鼻の長い人物たちは3.11の後に突然登場したのだ、と画廊のオーナーが教えてくれた。なるほど2012~13と年記のある鏑木作品の人物は、人形のような長い鼻が目をひく。2014年には、手と身振りが誇張された象徴主義的人物たちが登場し、作風が一転したように見えた。
そして再び、人物たちの鼻は、異様に伸びだした。伸びすぎたせいか、関節まであらわれ、そこからぽきんと折れてしまいそうで心もとない。人々がそのような姿に変わるまでに、いったいどんな出来事があったのだろうか。瞳は不安げに揺らぎ、焦点を結んではいない。
長い鼻をもつ登場人物は、肉付き悪く、重力に耐える骨さえ失ったように頼りない。肩、耳、指、手、両腕――タイトルにもなっている身体のパーツが、別の人格を持ち、主張しはじめ、登場人物を困惑させ、身動きできない状況に追い込んでいる。「わたしは誰だ」という虫の問いかけは、彼らの内側から響きだした声だろう。
20代のころ人形劇団で働いた経験を持ち、球体関節人形を作って「憑人形」という写真展で発表した鏑木は、しばしば身体を断片的に考察する姿勢がみられる。代表作「背中」シリーズで、もはや背中ではない「背中」を執拗に見つめ、繰り返し描き出したことを顧みれば、今個展の引き伸ばされた身体もまた、一人の人間の存在を超えた問いかけではないだろうか。
出品作品中では趣が異なる作風の《怪しい夢はとけていく》や《夜のアイスクリーム》に、闇の中でひそかに溶解していく悪夢=メルトダウンのイメージが重なることも、注目に値するだろう。報道によると、原発事故後、放射能が漏れだしたエリアでは、植物や虫など生態系への影響がみられるという。鏑木が描きだす《花の磔刑》など蠱惑的な植物たちは、美しい幻影といえるのだろうか。
コッローディ作『ピノッキオの冒険』の冒頭、主人公は風変わりな「一本の棒っきれ」であった。言葉をしゃべる「棒っきれ」は、お爺さんの手で子供の姿の人形に生まれ変わり、何度も過ちを繰り返し、道を踏み外す。ファンタジックなアニメ映画とは異なり、原作は辛辣な社会風刺を含んだ物語である。物語の後半、ピノキオは人間になりたいと願い、青い髪の仙女に導かれて成長していく。
今回発表される作品の多くが、水のようなブルーに浸されている。静かな青い背景は、波打つ髪と衣裳をまとった女が登場する連作《波づくし》から、大きく渦巻き始める。女はスコップを手に、水底を浚おうとしているのだろうか?スコップと波打つ水のモティーフは、1970年初個展で発表された鉛筆画《シャベルを持つ少年》、あるいは1991年の「処刑」シリーズ《5本のスコップと男達》に先例がみられる。しかし《波の秘密》では、二人の関係性、状況が不明瞭で、いっそう謎めいていた魅力を放っている。
《磯の香りの未亡人》になると、深い水のせいで柄の部分しか見えないため、ふと、混沌をかき混ぜて島をうみだしたイザナギとイザナミの神話が想い起された。波間に浮かぶ黒い島々は、昨年の個展で主要なモティーフだった襞状のフリルからメタフォルモーゼした形態である。フリルは衣服から抜け出し、過剰に画面を覆い尽くした後、クラゲのようにさまよい、国産みの物語の島々となった。
鶴岡政男が敗戦後の日本を象徴する《重い手》を描いたのは1949年。終戦から4年の月日が流れていた。身に余るほどの衝撃的な体験は、時間をかけて醸造され時代を写す鏡となる。震災から5年を経た2016年の鏑木の作品群に、3.11後の閉塞感と混沌が深くにじみだしたとしても不思議はない。目に見えない不安や不穏な気配に身を固め、打ち震える異形の人々は、水面に波をおこす女が象徴する混沌からの再生=国産みの物語に、小さな希望を見るだろうか。
鏑木の絵画にストーリーの展開を暗示するものはない。ピノキオたちはどこに向かうのだろう?
上山 陽子(美術評論家)