浮上について
鏑木昌弥さんの作品世界を知って浅い私が、作品について何かを語ることに躊躇しつつも、何年か前、カタログデザインの仕事を通じて出逢って以来、その世界の不思議は心に刻まれていた。過去の作品を紐解くと、変容する表現世界に目をとられるが、今回、出来上がった作品たちを見せていただいた時に、ふとタイトルの一つである「浮上」という言葉が気になった。
「浮上」と名付けられた作品は小さなスケッチで、複雑に絡み合い積み上がった3人の男女が、どうしてこんなことになってしまったのか判らない、あるいは、そんなおかしな状態に陥ったことにすら気がついていないという体で、こんがらがったまま画面のなかに留まっている。面白いのは、登場人物たちには特に困った様子もなく、悠然と佇んでいるようにすら見えるのだ。彼らは三角関係のもつれでのっぴきならない状態なのではないか、と想像したりもするのだが、なぜかこの絵からは、辺りにはそよ風が吹いていて、何処からか音楽でも聞こえてくるのでは、といった気配を感じてしまう。
やがて、奇妙ながら均衡のとれた世界のなかに、さらにもう一つ、おかしなものがあることに気がつく。ボールのような球体が1つ、宙に浮かんでいるのだ。あれは一体何なのか、気になり始めるとその存在に呼ばれるのか、作品ファイルを誘われるようにめくると、いる。あそこにも、ここにも・・・・・・。しばらく球体の道案内で鏑木さんの世界をひらひらと飛び歩いてみると、作品の中に生きる人々は実に多様で、彼らは黙々と舞台に身を置き、与えられた宿命の形に従っている。虚ろなまなざしのまま座り込んでいる者もいれば、互いに体を仰け反らせて、激しくつかみ合い罵り合っていたりする。まるで日々暮らすなかで内に収めてしまう本音の部分を思いっきり演じてくれているようで思わず笑ってしまった。また、その舞台では、小動物や長い足と触覚を人の身体に触れた巨大な虫たちが、主人公の人間と寄生し合うかのように、同じ運命の中で息づいている。
不条理な世界という言葉が浮かんだ。途端に、いや、少し違うのではという気持ちがよぎる。ふと、数ヶ月前、出来上がった作品を拝見しに日本橋を訪ね、画廊が開くまでの間、近くの喫茶店で鏑木さんとコーヒーを飲みながらお喋りをした時の記憶が甦った。小一時間のお喋りは楽しく、鏑木さんは日々のことを気さくにお話しになり、そのなかで東日本大震災の頃のことも話題にあがった。大震災の衝撃と被災地の厳し過ぎる状況、それでも日常は流れていく事との間に、また、画家としてその時間を過ごすことに対して、鏑木さんも思い悩まれたことをとても率直に語ってくださった。10年間もの長きにわたり、ご家族の介護をされながらの制作を経験されたことも知った。
今再び、描かれた作品たちを見渡してみる。スケッチの「浮上」と同じ微かな風を感じ、心地よく響く音を感じる。グレーに煙る青磁色がゆったりと背景を流れ、抑制が利いたピンクや淡い紫色などが、画面のなかで控えめに溶け合っている。しかし、その美しい響き合いの中には、人生のなかで遭わずに済まない悲痛や苦悩、怒りといった暗い奥底からたぐり寄せられた糸が織り込まれているはずだ。ところが見事にというべきか、鏑木さんという人は誰にも判らない織り方を得て、まるである日ひらりと現れたような、たくさんの夢色の作品を仕上げられた。重い糸をしっかりと掴み、抱み込んだからこその発光とともに、作品は描かれた境界線を越え、どんどんと「浮上」し始めたのではないだろうか。時折現れるあの球体は、鏑木さん自身かもしれない。そんな風に思ったのは昨日、3月11日のことだった。
清水恭子(編集者)