「まなざしという衣」

 鏑木昌弥氏の絵は、何か物語がありそうに見えるのだが、私には絵解きができたためしがない。今では端からそれは諦めている。なぜ、いけ好かぬおやじが蟹に喰らいついているのか、訳の分からぬまま、心にいささかの波風が立ったことを確認しておけば、何かしらの感情の記号として、記憶の襞に潜むであろう。作家自身説明のできることではないだろう。たまたまテレビ画面で見た厚顔男へのいらだちから始まっているのかもしれないし、その時テレビをつけていなければ現われなかった画像かもしれない。たまたま見た人物が彼の内部の傷に触れて始まったきわめて個人的な事実の、それは始まりでしかない。

 もしも、彼の絵が、彼の身辺的な出来事の表現、痛みの直接的な訴えであったならば、人は遠ざかって行くだろう。判らない部分が少なくないにもかかわらず、私にとって気にかかる画家であったのは、単なる表現者ではなく画家、それも稀有なる「後ろ向き」の画家だからである。この「後ろ向き」とは、1987年の発表とテキスト「後ろ向きと背中の間」から引くものだが、そのテキストで、「“背中”とばかり思い込んで描かれた絵に二重映し的に見いだすことが出来る“絵画”が現われることになる」と予見する。美術史上の背中と背面像を洞察したこのテキスト自体、彼が絵描きであると同時に、すぐれて見る人であることをうかがわせるが、そのもとに、画家とは別の所で彼がいくつもの背中の黙示を受けとめてきたことが拝察される。鏑木昌弥という画家を、私は「背中の画家」と見て来たが、彼の言う「後ろ向き」を、私なりに翻訳すれば、背中への意識、背中の覚醒ということになろうか。

 「後ろ向き」とは、もとより振り返ることではない。眼のある面、顔とは逆向きの意識である。人間は前を向くべく造られている。向き合うことによる限定と対立は、宿命であり、しかしまた、開かれた世界の親密な状態に背を向けるところに、親密から偉大への人間の道がある、とリルケは謳った。だが、そのような可能性へと造られた人間であっても、いや、前を向くように造られたものであるがゆえに、背中は顧みられずに、正面に対する背面とか違背とか、ネガティブなニュアンスが背中にはつきまとう。

 自分の顔は見えないと言われるが、それ以上に見ることのできないのが自分の背中である。前のめりになるあまり、自分の背中は自意識の外にある。在るというよりは、どこまでが自分なのかも分からぬほどに、外部の質料世界、或は現実に吞み込まれているのではないか。自分の知っている背中はすべて他人の背中であって、自分の背中は、無防備なままに人の眼に曝されるばかりである。つまりは、背中とは、衣服をまとっていても裸形にあり、混沌に紛れている。

 「後ろめたい」という言葉がある。自分の眼の前にある他人の背中を見る時に覚える「気が引ける」、後のことが気にかかるという情動こそ、「後ろ向き」ということか。その時同時に私たちは、自分の背中に目覚めるのであろう。その時覚える疾しさは、見返すもののない裸形の背中を私が一方的に覗き見てしまっているからである。盗視するつもりはなくても、見えてしまうものがある。鏑木氏が身を置いたもう一つの仕事場はそういうところではなかったか。だからこそ、見守ることが始まるのだ。裸形の背中を自分のまなざしで包みくるむこと、そして混沌から引き離す、それが見守るということではないか。鏑木氏の絵画、彼にとっての絵画とは、親密な世界に留まるものでも、また親密な世界に別れを告げて偉大に向かう歴史的な絵画でもない。傷ましき背中、ネガティブに見られる背中に、絵画的言語という衣一枚まとわせるための場ではないだろうか。

 そうした絵であれば、見られて当然、俺を見ろと言わんばかりの面の皮、強面の画面は持ち合わせていない。なればこそ私もまなざしを重ねるべきではないか、と思う。彼がみずからを語る時、「病気」、「後遺症」、「症候群」と疾を意味する否定的な語彙が散見されるが、それが彼のまなざしでくるまれて現われる時、現代の傷みの肯定的なことばとなっている。彼がしようとしていることは、己を表現することなどではなく、混沌の闇と境目のない背中という前人称の存在の傷み、苦悩をそれとして形あらしめることであろう。彼の言い分を引いておこう。「自分のなかで、ものをつくる人間とものを見る人間とが共存しているのは当然ですけれども、最終的に絵になったときに、作る人間の快感だけではたされている絵に対しては、ぼくはどこかで嫌悪感をもちます」。作る人は「病的な」までに見境なく細部にのめり込む。その密着的な近さに、まなざしの距離をさしはさむ見る人がいてこその絵と言えよう。

 今回の発表では、「フリル」が主要なモチーフとしてくりかえされているが、それはどこかクラゲのようにも見える。と言っても、クラゲであるかどうかはどうでもよい。ただ、その漂い方、まといつく様が、水を呼び込む。水は描かれずとも、人物には水が密着しているかのように感じられる。その水にぷかぷかと漂いながら、骨(=背中)を思わせる白いフリル、或は巷の風俗的な色に染められたフリル、すなわちおくるみをまとって闇が、語られぬ傷み、苦悩が、人物にまつわりながら背後から前面へと現われて来るのを見る。前のめりになりすぎた社会の海に漂い始めた無数の裸形の魂に、タマフリに倣って、画家は衣裳を挿し掛ける。

                                                                       市川 政憲(美術評論家)